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音楽

矢印第1回放送ミュージックリスト01
「your song」
Elton John
矢印第2回放送ミュージックリスト02
「Natural Woman」
Carole King
矢印第3回放送ミュージックリスト03
「そよ風の誘惑」
Olivia Newton-John
矢印第4回放送ミュージックリスト04
「真夜中のオアシス」
Maria Muldaur
矢印第5回放送ミュージックリスト05
「駅」
竹内まりや
矢印第6回放送ミュージックリスト06
「グッドバイマイラブ」
Ann Lewis
矢印第7回放送ミュージックリスト07
「心の旅」
チューリップ
矢印第8回放送ミュージックリスト08
「初恋」
村下孝蔵
矢印第9回放送ミュージックリスト09
「I LOVE YOU」
尾崎豊
矢印第10回放送ミュージックリスト10
「星に願いを」
Diana・Supremes
矢印第11回放送ミュージックリスト11
「雨に負けぬ花」
Simon・Garfunkel
矢印第12回放送ミュージックリスト12
「あなたのとりこ」
Sylvie Vartan
矢印第13回放送ミュージックリスト13
「マイ・ウェイ」
Andy williams

第13回放送「マイ・ウェイ」


ミュージックリスト13元々はフランスのシャンソンでしたが、1969年にポール・アンカが英語の歌詞を付け、フランク・シナトラが歌ったことで大ヒットしました。シナトラの他では、エルヴィス・プレスリーの歌う「マイ・ウェイ」も人気が高く、日本では布施明が72年にカヴァーしています。(日本語の訳詞は中島淳氏)。英語と日本語の歌詞では多少ニュアンスが違うものの、基本的には「困難があっても、自分の信じるままに歩いてきた」という内容であり、人生を讃える一曲だと言えます。アンディ・ウィリアムスは60年代にアメリカや日本でビッグ・ヒットを連発したトップ・ヴォーカリスト。映画のナンバーからハワイアン・ソングまで、圧倒的な歌唱力で幅広いポピュラー・ミュージックを歌い、大きな支持を集めました。


profile “Andy williams”

1930年12月アメリカのアイオワ州生まれ。60年代に大活躍した米・国民的ポピュラー歌手。1930年代後期、ウィリアムズは彼の3人の兄ボブ・ディック・ドンと、カルテットを形成。その後、ウィリアムズはロサンゼルスに移り、1952年ソロ活動を開始。1956年「カナダの夕陽」がトップ10入り。1960年代の間に、ウィリアムズはアメリカで最も人気があるヴォーカリストのうちの一人になる。 1973年までに、彼は18ものアルバム賞を受賞。甘いボーカルで60年代に数々のヒット曲をリリース。アメリカの国民的な歌手となる。ヒット曲には「カナダの夕陽」「ハワイの結婚の歌」「ムーン・リバー」「酒とバラの日々」「シャレード」「ある愛の詩」「ゴッドファーザーの愛のテーマ」等がある。

第12回放送「あなたのとりこ」


ミュージックリスト12 “フレンチ・ポップスの妖精”と言われたシルヴィ・バルタンの代表曲。リリースは1968年ですが、日本では70年に遅れてヒット。近年は、CMやテレビ、映画「ウォーターボーイズ」の挿入歌などとして使われ、彼女を知らない世代からも親しまれる歌となりました。曲は溌剌とした軽やかなイメージですが、歌詞の内容は、愛する人にどうしても惹かれてしまう心境を綴ったディープなものとなっています。シルヴィは60年代、抜群のスタイルと中性的な雰囲気、アメリカやイギリスのアイドルとはひと味違った魅力で人気を博し、当時日本で巻き起こったフレンチ・ポップスのブームを作った一人。このナンバー以外にも、「アイドルを探せ」や「悲しみの兵士」などの有名なヒット曲があります。


profile “Sylvie Vartan”

1944年8月15日ブルガリア西部の村、イスクレッツ生まれ。父はフランス人、母はハンガリー人で、8才の時には共産党独裁政権になったブルガリアをのがれて一家でパリへ移住。1960年フランキー・ジョルダンとのデュオでレコード・デビュー。この頃、ロックンロールが世界中の若者たちのハートを捕らえ、シャンソン一辺倒だったフランスでも新しいムーブメントが起こり始めた。フランス語は日本語と同様に、ロックのリズムに乗りにくい言語だと言われており、それ故、ロックを取り入れたフランス独特の音楽文化として、フレンチ・ポップス(イェイェ)が誕生。そしてこのフランス・ローカル・サウンドを、世界的に認知させたのがシルヴィ・バルタンであった。同年、映画「アイドルを探せ」に出演して主題歌を歌い、この曲が日本でも大ヒット。中尾ミエやhitomiなどがカバーしている。その後、1970年には「悲しみの兵士」「あなたのとりこ」1972年には「哀しみのシンフォニー」など、数々のヒットをとばす。初来日は1965年、羽田に1000人のファンが詰めかけた。この時期、1965年には歌手のジョニー・アリデイと結婚し、1966年には息子のデビッド・アリデイが生まれるが1980年には離婚。その後、1981年の東京音楽祭で出会ったトニー・スコッティと再婚している。シルヴィは、歌と同時にダンスのけいこにも励み、1970年代以降は歌って踊れるアーティストとして、"シルヴィ・バルタン・ショー" を立ち上げ、アメリカ人ダンサーも多くまじえた華やかなコンサートを、パリのパレ・デ・スポール、パレ・デ・コングレなど巨大ホールで一ヶ月間も行い、画期的な成功を収める。日本にもこのコンサートを持って幾度か来日、日本のファンを熱狂させた。1995年にはフランス映画「甘い媚薬」に主演。第5回フランス映画祭横浜に団長として来日し、その変わらぬ美しさで日本の観客を魅了した。フランスのテレビドラマにも何度か主演し、女優としても活躍。その間も新作アルバムを発表し、歌とダンスの大がかりなコンサートを行ってきた。2004年春、フランスで自伝「陰と光の間で」を出版。現在30万部を越えるベストセラーとなり、欧州各国で翻訳出版。同時に新作アルバム“SYLVIE“を発表(邦題「永遠にあなたのとりこ」)した。デビュー以来フランスの女性ファッションをリードしてきたシルヴィの衣裳の歴史は、そのままフランスの二次大戦後のモード史といえる。キャリア40年にも及ぶが、その若々しさ、新鮮さは変わらない。

第11回放送「雨に負けぬ花」


ミュージックリスト11 サイモン・ガーファンクルのアルバム「パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム」(1966年リリース)に収録された一曲。サイモン・ガーファンクルは、ポール・サイモン、アート・ガーファンクルの二人で結成するフォーク・デュオで、「サウンド・オブ・サイレンス」「スカボロー・フェア」など、言わずと知れた名曲の数々を世に残しています。インテリジェンスあふれる詩的な歌詞や、繊細で美しいメロディ、巧みなギター・サウンドとコーラス・ワーク。彼らの音楽は、時に、モダンなインテリアや建築を見ているような印象を与え、独特な世界観で構築されています。特にポール・サイモンは、ポピュラー・ミュージック最高のコンポーザーとも賞賛され、その音楽性に対して高い評価を得ています。


profile “Simon・Garfunkel”

1960年代に活躍した、二人のユダヤ系アメリカ人ポール・サイモン(Paul Simon)とアート・ガーファンクル(Art Garfunkel)によるユニット。1990年にロックの殿堂入りを果たしている。1964年に、ニューヨーク市の小学校時代からの親友だった、ポール・サイモンとアート・ガーファンクルで結成。1957年にトム・ジェリーとして「ヘイ・スクールガール」のヒットを飛ばす。アルバム「水曜の朝、午前3時(Wednesday Morning,3A.M.)」でデビュー。しかし発売初年度の売上はのびず、ポールはヨーロッパ放浪の旅へ、アート大学院へと戻ってしまった。その後、本人の知らない間に、プロデューサーのトム・ウィルソンがアルバム収録曲の「サウンド・オブ・サイレンス(The Sound of Silence)」にエレキギターやドラムなどを別テイクで加えリリースしたところ、これが大ヒット。1966年に、全米1位となり、成功の歴史が始まることとなった。その後「サウンド・オブ・サイレンス」、「パセリ・セージ・ローズマリー・タイム」とアルバムを発表。1968年には、映画「卒業」の音楽を担当したことで、日本をはじめ世界的にも大きな成功を収め、スーパースターの仲間入りを果たす。1970年発表のアルバム「明日に架ける橋」は、その年のグラミー賞6部門を獲得。世界で1,000万枚を越える売上を記録した。しかし、このアルバムを最後にグループは解散。ポール・サイモンはソロ・アーティストとしてのキャリアをスタートさせた。1981年9月19日にはニューヨーク市のセントラル・パークで再結成チャリティコンサートを開いて53万人もの観衆を動員し、世界ツアーを行った。近年は1993年、2003年と度々再結成を行い、全米ツアーなどを行っている。1993年12月1日には「Event of a lifetime Tour」として東京ドームと福岡ドームで再来日公演を行なった。この際、南こうせつが前座を務めた。彼らの作品は多くのミュージシャンにカヴァーされ、歌い継がれている。日本では、1993年に、「冬の散歩道(A Hazy Shade of Winter)」のオリジナルを野島伸司がドラマ「人間・失格」で使い、日本でのリバイバルを果たした。

第10回放送「星に願いを」


ミュージックリスト10 ディズニー映画「ピノキオ」(1940年)から生まれた永遠のスタンダード・ナンバー。映画では、ピノキオが人間になれますように…と願いながら、コオロギのジミニー・クリケットが歌っています。(実際に歌を担当したのはクリフ・エドワーズ)。アメリカ映画協会が選定した、映画史における偉大な歌百選の7位にも入っている名曲中の名曲であり、世界中の人々にいまでも愛され続けている一曲。ポップスからジャズ、イージー・リスニングに至るまで、星の数ほどの歌手やミュージシャンにカヴァーされていますが、番組でお送りしたのは、60年代に一世を風靡したダイアナ・ロス・ザ・シュープリームスのバージョン。ダイアナ・ロスのチャーミングなヴォーカルが名曲の魅力を引き出しています。


profile “Diana Ross・The Supremes”

1944年3月26日、アメリカ合衆国ミシガン州デトロイト生まれ。アメリカで最も成功した黒人女性歌手の黒人女性歌手の一人であり、ブラックミュージック界の大御所である。シュープリームスのリードシンガーとして「Stop! In the Name of Love(1965) ※globeがカバー曲として発表」「You Can't Hurry Love(1966)」「You Keep Me Hangin' On(1966)」など数々のヒット曲を放ち、トップスターの仲間入りを果たす。ほとんどのヒット曲はモータウンの看板作曲家チームのホーランドの作品である。メンバーはダイアナ・ロス、メアリー・ウィルソン、フローレンス・バラードの3人。1967年フローレンスが脱退し、シンディ・バードソングが加入。これを機に、ダイアナ・ロス・ザ・シュープリームスと正式にグループ名が変わった。1969年にはダイアナがソロに転向、ジーン・テレルが加わる。日本では従来、“シュープリームス”と表記されていたが、近年は英語の発音に近づけて“スプリームス”と表記する例が多い。ダイアナはシュープリームスの人気が一段落した1970年にダイアナはグループを脱退。ソロ歌手として活動を始める。ソロ転向後も、ヒット曲を放ち、スーパースターとしての地位を確立した。1975年の「Theme from Mahogany (Do You Know Where You're Going To)」では、全米1位を獲得した。日本ではネスカフェのCM曲として有名である。映画女優としてもアカデミー賞主演女優賞にノミネートされるなど、活躍の幅が広がった。しかし、1984年以降、ヒット曲には恵まれず、また幼い頃から可愛がっていたマイケル・ジャクソンには「ダーティー・ダイアナ」という曲を書かれ顔に泥を塗られてしまった。それでも、イギリスでは安定した人気を誇り、日本でも1990年に「イフ・ウィー・ホールド・オン・トゥゲザー」がテレビドラマ「想い出にかわるまで」の主題歌に起用されて洋楽では異例のヒットを記録している。1990年代以降は公私に渡るトラブルもあり第一線からは退いてるが、ポピュラー音楽界の偉人であることから、記念イベントなどで時折顔を見せている。彼女たちをモデルとしたミュージカル「ドリームガールズ」が1981年に初演。2006年にこれを原作とした映画版「ドリームガールズ」が公開された。ダイアナをモデルとしたディーナ・ジョーンズ役に、ビヨンセ・ノウルズが配役され、注目を浴びた。

第9回放送「I LOVE YOU」


ミュージックリスト09 若者の間で社会現象まで巻き起こし、26歳という若さで突然この世を去ったカリスマ、尾崎豊の代表曲。これからも聴き継がれ、歌い継がれていく邦楽ラヴ・ソングのスタンダード・ナンバー。元々は、1983年にリリースされた1stアルバム「十七歳の地図」に収録されており、ファンの間では愛着のある一曲でしたが、91年にテレビのCMで流れて反響を呼び、同年3月にはシングルとしてもリリースされています。宇多田ヒカル、中島美嘉、河口恭吾といった数多くの邦楽アーティストはもちろん、アジアの歌手にもカヴァーされており、それを合計した売上げは1000万枚に達します。「I LOVE YOU」は、日本の国民的な名曲であり、アジアでも愛されているラヴ・バラード。


profile “Yutaka Ozaki”

1965年11月29日、東京都世田谷区生まれ。父は陸上自衛官、母親は保険の外交員で暮らしは決して裕福ではなかったが、教育熱心な家庭であった。1981年、第一志望であった埼玉県内の私学の最難関である慶應義塾志木高等学校に不合格となるが、1月15日に受けた陸上自衛隊少年工科学校の1次試験は20倍の競争率を突破して合格。しかし、陸上自衛隊少年工科学校への進学は辞退し、既に合格していた青山学院高等部に進学。1981年、12月に「NOA」というアコースティックバンド名で、新宿ルイードで初ステージを行う。1982年10月11日、CBSソニーオーディションにて「ダンスホール」「もうお前しか見えない」を歌い、合格する。 1983年12月1日、アルバム「十七歳の地図」シングル「15の夜」によりデビュー。 1984年8月4日、日比谷野外音楽堂でのライブイベント「アトミックカフェ」出演中に、7メートルの高さの照明台から飛び降り、左足を骨折。 1985年1月21日、シングル「卒業」がオリコンチャート初登場で20位を獲得し、楽曲の一部の過激な表現が話題となる。尾崎豊は完全な口コミでファン層が広がっていった為、ファーストアルバムである「十七歳の地図」は3千枚を売るのも大変だったが、徐々に人気が出て「卒業」の大ヒットにより、その地位を確立した。 その後も、アルバム「回帰線」が初登場1位を獲得。8月には大阪球場でライブを行い2万6000人を動員。11月には代々木オリンピックプールにてライブを行い、2日間で3万人を動員する。1986年以降、無期限活動停止宣言をし、渡米する。 1987年12月22日、覚せい剤取締法違反で逮捕され、1988年2月22日、東京拘置所から釈放。 6月22日、フジテレビ「夜のヒットスタジオ」に最初で最後のテレビ出演し、新曲「太陽の破片」を歌う。同年、9月12日、東京ドームでのライブを行い、5万6000人を動員する。1989年には長男である裕哉君が生まれる。1991年3月21日、シングル「I LOVE YOU」をリリースし、JR東海のCMに使用され話題になる。10月30日には代々木オリンピックプールにてライブを行い、事実上、これが生涯最後のライブとなった。 そして、1992年4月25日早朝、東京都足立区千住河原町の民家の庭にて全裸の泥酔状態で発見され、近くの交番より警官が出動し病院にて診察を受け、夫人が自宅マンションへ車で連れて帰った。 その後、自宅マンションで暴れたり眠ったりを繰りかえしながら、突如危篤状態となり救急車で日本医科大学の緊急病棟に収容されたが、蘇生措置の甲斐もなく他界した。26歳の若さでのあまりにも早すぎる死であった。死因は、致死量の2.64倍以上の覚醒剤服用―オーバードーズによる急性メタンフェタミン中毒が引き起こした肺水腫と結論付けられている。尾崎の遺体には暴行を受けたような傷やあざもあり、また亡くなった日の状況がきわめて不自然であることから、他殺とする説もあるが、真相は不明のままである。警察は「事件性なし」として調査を終結。尾崎豊が亡くなってから約2年後に、10万人近くの尾崎ファンの署名を集めた再捜査嘆願書が警察に提出されたが受理されなかった。1999年には写真週刊誌「フライデー」に蘇生措置を施している様子の写真が掲載され、当時の捜査員の証言などもあって、その死因の不可解さはいっそう深まった。その思想や活動、若者におけるカリスマ的人気から、中学・高校などの公教育の現場では長らくタブー視されて来たが、死後、十年以上経った現在では、評価も変わって来ており、高等学校検定教科書に顔写真や「15の夜」の歌詞が掲載されるに及んでいる。

第8回放送「初恋」


ミュージックリスト08 シンガーソングライター、村下孝蔵が放った1983年のヒット・ナンバー。村下孝蔵は、自身のことをよく「最後のフォーク少年」と称していたようですが、英語を多用するのではなく、聴いているとその情景が目に浮かんでくるような日本語の歌詞を用いた叙情的な曲作りを大切にしていました。「初恋」はその代表的な一曲。アルバム・ジャケットに使われていた村上保氏の切り絵も印象的であり、楽曲とシンクロして、淡く、切ない“村下ワールド”が展開されました。村下孝蔵には根強いファンが多かったですが、1999年、彼はコンサートのリハーサル中に倒れ、同年6月24日、46歳という若さで帰らぬ人となりました。その早すぎる死を惜しむ声は多いですが、村下孝蔵は“永遠の歌人”としてファンの心に存在し、「初恋」をはじめとするたくさんの歌は人々の胸に刻み込まれています。


profile “Murashita Kouzou ”

1953年2月28日生まれ。熊本県出身。生家が映画館を経営していたため、映画の影響でギターに魅せられ、映画や外国のポピュラー音楽に親しむ。ベンチャーズや加山雄三のギターテクニックにも憧れ、音楽に没頭していく。高校卒業後は、九州を離れ広島にてピアノの調律師をするかたわら音楽活動を開始し、自主製作アルバムを発表する。この頃、広島の音楽好きには知られた存在で、地元のラジオ番組なども担当していた。この後も広島を中心に音楽活動を行い、1979年、ソニーレコード「CBSソニー」が主催した、第1回SDオーディションに合格。同期合格者にはHOUND DOG、堀江淳、五十嵐浩晃がいた。1980年5月21日「月あかり」でデビュー。 その後、地道なライブ活動でファンを獲得し、1981年「春雨」、1982年に「ゆうこ」が話題となる。1983年には「初恋」「踊り子」が大ヒットし、以降七夕コンサートを筆頭に地道なコンサートツアーを続け、年一枚のペースでアルバムを発表する。これらのヒットにより、英語を使わずに日本語を用いた丁寧な情景描写による歌詞と、旧来の歌謡曲と洋楽や日本のグループサウンズのメロディーを融合させた、繊細かつ親しみやすい曲調を奏でるシンガーソングライターとして認知される。「初恋」ヒット時は、テレビ番組への出演は所属レコード会社の意向で控えられていたが、本人は至って前向きな姿勢で後年機会があれば出るようになった。1998年10月31日には、2年4ヶ月ぶりのニューシングル「同窓会」を発表。また、世界的バイオリニスト「天満敦子」とのジョイントコンサートで、ポップスとクラッシックの融合を試みるなど、常に新しいチャレンジを心がけていた。しかし、1999年6月20日、20周年を迎え意欲的な活動のさなか、コンサートのリハーサル中に脳内出血で倒れ6月24日都内の病院で脳内出血の為、急逝。作詞作曲能力・歌唱力・ギターテクニックはいずれも非凡で、今でもあまりにも早い死に惜しむ声は多い。

第7回放送「心の旅」


ミュージックリスト07 1971年、財津和夫(Vo/G)を中心に博多で結成されたチューリップが、 73年にリリースした3枚目のシングル。当初から卓越したメロディ・センスを持った楽曲が高く評価されていた彼らでしたが、なかなかヒットに恵まれず、この曲が売れなかったら故郷へ帰ろうという話もあったそうです。 しかし、「心の旅」は、出だしから心をつかまれる印象的なメロディと歌詞が多くの若者の胸を打ち、73年9月にオリコンチャートのナンバー・ワンに。現在も歌い継がれる名曲となっています。 チューリップは以後、「青春の影」「サボテンの花」といったヒットを生み出し続け、“日本のビートルズ”といわれたほどに。今年2007年には、結成35周年の全国ツアーもスタートします。 青春時代をチューリップの歌とともに過ごしたたくさんのファンに出迎えられます。


profile “Tulip”

1970年結成。ポップとロック、そしてフォークの垣根を崩し、新しい音楽分野「ニューミュージック」を開拓した先駆者。 チューリップの歴史は、前身のバンドである「フォーシンガーズ」が「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に出場したことから始まる。 この時のメンバーは、財津和夫、吉田彰、田中孝二、末広信幸の4人。だが、入賞はできなかった。(このときの1位は赤い鳥、2位はオフコース) その後、財津和夫はフォーシンガーズを解散し、1970年西南学院大学在学中に、財津和夫が中心となり福岡市で「チューリップ」結成。 メンバーの入れ替わりがあった後、5人のメンバー「財津和夫 (vo/g)、吉田彰 (b)、安部俊幸 (g)、上田雅利 (ds)、姫野達也 (key/vo) で本格的に活動を開始し、 この頃から地元福岡では人気を博す。1972年上京し、シングル「魔法の黄色い靴」でメジャーデビュー。財津和夫の日本語を西洋メロディに乗せるセンスには優れたものがあり、 業界では高評価を得、多くのビートルズ・チルドレンの中でも群を抜いていた。1973年に出したシングル心の旅」が5ヶ月かけてレコード売り上げ1位を記録し一躍スターダムにのしあがる。 その後も1974年「青春の影」、1975年「サボテンの花」などを立て続けに誕生させ、確固たる地位を築いた。 ライブを中心に活躍したチューリップは、日本初の単独野外ライブ、単独コロシアム・ライブ、遊園地「よみうりランド」での野外ライブを行う。大規模なステージセットなど、日本での先駆者的役割は計り知れない。 しかし、1980年、吉田、上田が相次いで脱退。89年には、アルバム「Well」を最後に一旦解散。財津和夫は本格的にソロ活動に入る。1997年には、財津、安部、上田、姫野、宮城で再結成。 ライヴ活動を展開し往年のファンを動員している。

第6回放送「グッド・バイ・マイ・ラブ」


ミュージックリスト06 アン・ルイスの74年のヒット・シングル。作詞はなかにし礼、作曲は平尾昌晃。アン・ルイスは80年代、独自のファッション・センスと「六本木心中」や「ラ・セゾン」などの楽曲で人気を博し、ロックなイメージが定着しましたが、デビュー当時はハーフのアイドルという路線で歌謡曲を歌っていました。(ちなみに、「グッド・バイ・マイ・ラブ」のシングル・レコードのジャケットは、彼女が白いワンピースを身にまとってにっこりと笑っているもので、80年代の奇抜な印象とは全く違うものとなっています)。2006年には福田沙紀がこの曲をカヴァーし、テレビ・ドラマの挿入歌としても使われており、名曲が歌い継がれた格好になりました。近年はアン・ルイスの歌や活動を再評価する声も高まっています。


profile “Ann Lewis”

1956年6月5日生まれ。本名アン・リンダ・ルイス。
アメリカ軍の軍人を父、日本人を母として兵庫県宝塚市に生まれ、横浜市で育ちます。1971年2月25日発売の「白い週末」でメジャーデビュー後、1974年「グッド・バイ・マイ・ラブ」、1979年「恋のブギ・ウギ・トレイン」、1980年「リンダ」、1984年「六本木心中」、1986年「あゝ無情」、1987年「天使よ故郷を見よ」、1989年「美人薄命」、「WOMAN」などのヒット曲を連発します。シングル曲では累積セールス200万枚を突破します。1974年に六本木で一人暮らしを始め、1980年にはロック歌手の桑名正博と結婚、長男・美勇士を出産しますが、1984年桑名正博と離婚となります。その頃「六本木心中」が大ヒットし、歌番組での過激なポーズが話題に。1995年には、記者会見で自ら「パニック症候群」であることを打ち明け、音楽活動を休止しますが、 2005年11月23日にセルフカバーアルバム「REBIRTH」を発売と同時に音楽活動を再開。最近では、相川七瀬が「六本木心中」をカバー。日本ミュージック・シーンにおいて、アン・ルイスほどの活躍をした女性ロック・シンガーは、それまで存在せず、女性ロックシンガーの草分け的な存在として今でも愛されています。

第5回放送「駅」


ミュージックリスト05 もともとは、竹内まりやが中森明菜に提供した楽曲。後に、竹内まりや自身のヒット・ナンバーとセルフ・カヴァーを集めた87年の名盤「REQUEST」に収録され、より多くの人に愛される邦楽のスタンダード・ナンバーとなりました。(アルバム「REQUEST」は「元気を出して」などの名曲ぞろいで、ロング・セラー、ミリオン・セラーを記録。プロデュースは夫である山下達郎)。「駅」は、かつて愛していた人を見かけたけれども、声を掛けることができなかった…という内容であり、聴く人それぞれの思い出とシンクロして共感を呼びました。数多くある竹内まりやの楽曲の中でも、とりわけ人気の高いナンバーとなってい ます。

P.S..
この曲にはこんな歌詞があります。
「今になってあなたの気持ち 初めてわかるの痛いほど 私だけ愛してたことも」
「私だけ愛してたことも」の部分には助詞が付いていません。
私だけが愛してたことも??私だけを愛してたことも??
あなたはどちらを想いますか?


profile “Mariya Takeuchi”

1955年3月20日生まれ。血液型はA型。本名山下まりや。
出雲大社近くの老舗旅館「竹野屋」主人でもある竹内元町長の娘として生まれ、1972年の高校3年の時、AFS交換留学生として、アメリカ・イリノイ州 ロックフォールズ・タウンシップ・ハイスクールに留学。1974年、慶応大学 文学部 英文学科入学。1978年11月「戻っておいで・私の時間」でデビュー。1982年4月、山下達郎と結婚し、休養宣言以後、数々のアーティストに作家として多くの作品を提供。現在まで続いています。(薬師丸ひろ子、村田和人、中山美穂、中森明菜、伊東ゆかり、河合奈保子、岡田有希子、鈴木雅之、牧瀬里穂、松たか子 他)

第4回放送「Midnight at the oasis」


ミュージックリスト04 1973年にリリースされたアルバム「Maria Muldaur」(邦題:オールド・タイム・レディ)に収録。74年のスマッシュ・ヒットですが、90年代に日本で起こったフリー・ソウルのブームに乗って再評価された一曲です。アルバムには、ライ・クーダーやドクター・ジョンといった豪華な顔ぶれが参加。ディキシーランド・ジャズやカントリーといった、古くからのアメリカ音楽を洗練されたスタイルに昇華した楽曲が収められていて、始終リラックスしたムードに包まれています。ゆっくりお茶をしながらくつろぎたい…という時などにオススメの一枚なのではないでしょうか。アルバムのジャケットも、心を開放的にしてくれるような、印象的なデザインとなっています。

第3回放送「Have You Never Been Mellow」


ミュージックリスト03 70年代半ばから80年代にかけて、日本でも絶大な人気を誇り、東芝EMIが“ポピュラー界最大の美女”というコピーを付けたほどのトップ・アイドル、オリビア・ニュートン=ジョン。1975年にリリースされた「Have You Never Been Mellow」(邦題:そよ風の誘惑)は、彼女にとって2曲目となる全米ナンバー1ヒットであり、彼女の立役者であるジョン・ファーラーの作品。尾崎亜美が作詞作曲し、杏里が歌って80年に大ヒットした「オリビアを聴きながら」の「オリビア」が、オリビア・ニュートン=ジョンのことであるというのは有名な話。「オリビアは寂しい心 なぐさめてくれるから」という歌詞の通り、彼女は単なるアイドルではなく、優れた楽曲と歌声でファンを魅了しました。


profile “Olivia Newton-John”

1948年9月26日、イギリスのケンブリッジ生まれ。
5歳のときに一家でオーストラリアに移住。14歳のときにバンドを組んで音楽活動を始め、アマチュアコンテストで優勝したのをきっかけに1966年に「Toomorrow」というグループでイギリスでレコードデビュー。1971年にボブ・ディランがジョージ・ハリスンに提供した曲のカバー”If Not For You”がヒットしたのをきっかけにスターの階段を上ります。可愛らしいルックスとカントリー系の素朴な路線で人気を誇り、「IF YOU LOVE ME 」「HAVE YOU NEVER BEEN MELLOW」など次々とチャートに送ります。この時期「カントリーロード」や「ジョリーン」が日本独自のヒット曲となり、日本でもアイドルとしてビートルズ以後最も成功した洋楽アーティストとなりました。1981年には音楽性を打ち込みハードロック系に変え、爆発的ヒットを記録します。 世界に飛び立ったスーパー歌姫は、85年頃セールスが一段落すると結婚生活に入り、音楽界とは若干距離を置き、環境保護活動などの社会運動に取り組むようになりました。1994年に音楽界に復帰してからは定期的なライブツアーを行い、2000年のシドニーオリンピックの開会式では「Dare To Dream」を披露しています。

第2回放送「Natural Woman」


ミュージックリスト02「ナチュラル・ウーマン」が収録されているアルバム「Tapestry」(邦題:つづれおり)は、これまで世界中で延べ2200万枚を超える驚異的なヒットとなり、現在も売れ続けている歴史的名盤。この作品がシンガー・ソング・ライターの時代を切り開いたと言われています。キャロル・キングは1960年代、ソング・ライターとして活躍しており、「ロコモーション」をはじめとする数々のヒットを飛ばしていますが、「ナチュラル・ウーマン」も、もともとはソウルの女王、アレサ・フランクリンのために書き下ろした一曲。力強く、パワフルに歌うアレサのバージョンは、キャロル・キングとはまたひと味違った魅力がありますので、そちらの方も必聴です。


profile “Carole King”

1942年2月9日、アメリカ、ニューヨーク市・ブルックリン生まれ。本名Carole Klein。
4歳の頃から歌に興味を持つようになり、10代になった頃には当時最も新しかったロックンロール・ミュージックの虜に。大学に入学した彼女は最初の夫となるジェリー・ゴフィンとポール・サイモンと出会う。ポール・サイモンは、後にサイモン・ガーファンクルとして名を成す。1958年、ABCパラマウント・レコードからシングル・デビュー。だがどれもヒットには至らず、挫折を味わうことに。しかし、1960年代にはジェリー・ゴフィンとのソングライター・コンビで、「ロコモーション」「ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロウ」など後々まで歌い継がれている数々の名曲を生み出した。

第1回放送「your song」


ミュージックリスト01「ユア・ソング」は、1970年にリリースされた2ndアルバム「Elton John」(邦題:僕の歌は君の歌)に収録されています。このアルバムがヒットしたことによって、エルトンは一躍スターダムにのし上がり、スーパースターへの道のりを歩むことになりました。歌詞を書いたのは、エルトンと長年、曲を一緒に作り続けてきたバーニー・トーピン。バーニーから歌詞を受け取ったエルトンは、たった30分で曲をつけたとも言われていて、世紀のメロディー・メーカーであるエルトンの天才ぶりを伺わせます。バーニーの歌詞があったからこそ、この永遠の名曲が生まれたのだということも実感させられます。


profile “Elton John”

1947年3月25日、イギリスのミドルセックス州パイナーに生まれ。本名レジナルド・ドゥワイト。
11歳の頃にロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージックでピアノを専攻する奨学生となるが、17歳のときにショービジネスの世界で生きていくことを決心し、学校を辞める。エルトンは本格的なソロ活動を始めるべく、音楽業界紙のオーディションなどを通じて、アプローチするが、どのオーディションにも失敗する。そんな折、同じレコード会社のオーディションを受けていた作詞家・バニー・トーピンと運命的な出会いを果たす。フィーリングが合う、ということから一緒に共同で作曲を行うようになった二人。そして1968年DJMからシングル”I’ve Been Loving You”でデビュー。1970年の「僕の歌は君の歌」のヒット以降コンスタントに活動を続け、現在までに全世界で1億枚以上のレコード・セールスを記録。イギリスのロック界が生んだビッグ・スターである。